★上杉鷹山の言葉

遠州ナビ山下隆宏

2007年04月29日 21:14

為せば成る 為さねば成らぬ 何事も
成らぬは人の 為さぬなりけり

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読んでそのままの意味。
こう思って本気で取り組むことが大事ということだ。
遠州ナビをはじめるときも
「こんなお店が少ない地域でタウン誌なんてできないよ」と
相談する人に言われたものだ。

その時、心の糧にしていたこの言葉。

確か、ロボコン!(みなさん覚えてえる?)の終わりの歌の歌詞に
使われてもいた。

してみせて 言って聞かせて させてみる
も上杉鷹山の言葉で、山本五十六に影響を与えた。
アメリカの大統領、ジョンFケネディやクリントンが
日本の政治家の中で一番尊敬する人物としてあげている。

上杉鷹山

1751年9月9日-1822年4月2日は江戸時代中期の大名。
出羽国米沢藩の第9代藩主。官位は従四位下侍従、官名は弾正大弼のちに越前守。
領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲(はるのり)だが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名。

新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。

1785年(天明5年)に家督を前藩主・重定の実子である上杉治広(鷹山が養子となった後に生まれた)に譲り隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。1802年(享和2年)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山(しらたかやま:現在の白鷹町にある)からとったと言われる。1822年に死去、享年72。法名:元徳院殿聖翁文心大居士  墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。上杉神社摂社である松岬神社に、祭神として祀られている。

-------wikipediaより抜粋---------