2007年05月19日

★二宮尊徳の教え

まことの道というのは、学ばないでも自然と覚え
書籍もなく記録もなく師匠もなしで
しかも人々がてんでに会得して忘れない
そういうものこそまことの道だ。
のどが渇けば飲み、腹が減れば食い
疲れれば眠り、目が覚めれば起きる、みんなそれだ。
そのように、記録もなく、書籍もなく
学ばず習わずに明らかな道でなければ
まことの道ではないのだ。
だからわが教では書籍を尊ばず
天地をもって経文とする。
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掛川には大日本報徳社がある。
これは二宮尊徳の教えを
広く庶民に知らせるのに中心になった。
第1代社長は岡田佐平治
第2代社長の岡田良七が尊徳の弟子となった。
弟子の中でも「遠州の小僧」と呼ばれ
非常にかわいがられたそうだ。
良七は
冀北舎という(現掛川西高校)を
創立し、漢学や報徳の精神、
そして英語までもを教えたそうだ。
報徳の精神とは
「徳をもって徳に応える」
という考えがもとになっている。
良七は、日本で最初の信用金庫(現掛川信用金庫)も
創立したそうだ。
昨日。報徳社の宮川さんに教えてもらいました。
で、今の報徳社の社長は榛村純一前掛川市長です。

二宮 尊徳
(にのみや そんとく、天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日(1856年11月17日))は日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎。ただし、「金治郎」の表記が正しい。諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられた。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。

生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(現在の栃木県芳賀郡二宮町周辺)の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(栃木県真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。栃木県今市村(現在の日光市)にて没。

二宮の仕法は他の農村の規範となった。没後の1891年に従四位が追贈されている。弟子の大友亀太郎は旧幕府下で札幌村の開拓を指導。亀太郎は札幌開拓の始祖と呼ばれる。

二宮尊徳をまつる二宮神社が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(今市報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県芳賀郡二宮町(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県芳賀郡二宮町にも二宮尊徳資料館がある。


-----------------Wikipediaより-------------------


  


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2007年05月17日

★ラダ・ビノード・パール判事

この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は
《法の真理》である。
われわれはこの《法の真理》
を奪い返さ ねばならぬ。

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東京裁判の11人の判事の中で日本の軍部指導者の
全員無実を主張した判事。
京都の護国寺や靖国神社に石碑がある。
あの異常な状況下で
よく全員無実の判断をくだせたと思う。
戦争を起したことを悪く無いとは言わない。
人を殺すような行為、戦争はするべきではない。
が、それぞれ戦争を起す理由がある。
その理由がある限り
どちらかを一方的に裁けないと思う。

ラダ・ビノード・パール

(Radha Binod Pal, , 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者。極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、同裁判の11人の判事の中で、唯一被告人達全員の無罪を主張した。教科書や文献などでは、「パル」表記も多い。
1946年の極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣された[1]。

1950年10月に再び来日し、約一ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行うなどしている。広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。

1952年4月28日、GHQによる発行禁止などを避けるため、サンフランシスコ条約によって日本が主権を回復したその日に、パールの提出した意見書を元にした『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』が太平洋出版社から発売された。これは、田中正明がパールの意見書のうち1/5ほどを抜粋し、意見書に対する田中のコメントを追加したものである。

1952年、下中彌三郎(平凡社創業者、初代社長)らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。翌年下中彌三郎の招聘により三度目の来日。

1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。

1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任する。

1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。

1966年10月に清瀬一郎、岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。

1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。享年82。

1997年11月、インド独立50周年を記念して京都府京都市東山区の京都霊山護国神社に顕彰碑が建立され、パールの長男夫妻が来日し除幕式が行われた。また、終戦60周年の2005年6月には靖國神社にも同様の顕彰碑が建立された。

2006年12月、来日したインドのマンモハン・シン首相が衆議院にて行った演説で「戦後、パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています」と語り拍手で迎えられた  


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2007年05月16日

★吉田松陰の詩

かくすれば かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ 大和魂

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あらがうことのできない力として
日本国民を動かしてきた大和魂。
近代日本の輝かしい先駆者の一人である
吉田松陰が死刑の前夜にしたためた詩である。

自分の身を犠牲にして訴えなけらばならなかったこと。
他国の侵略から、日本を守るためにと
ただ、ただ愛国心、そして家族を守るために
死んでいった明治の志士たち。

4000万人の日本人のうち
本当に国を変えようと動いたのは
およそ4000人くらい。

今、日本の人口が
1憶3000万人。

およそ1万3000人が真剣に
日本国を変えようと考えれば
日本が変わるかも…

47都道府県で割ると
1県に276人。

静岡県で276人の
平成の志士を集うのを期待している。



吉田松陰
(よしだしょういん、吉田松蔭、天保元年8月4日(1830年9月20日) - 安政6年10月27日(1859年11月21日))は、日本の武士・長州藩士、思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者である。
天保元年8月4日(1830年)9月20日、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に家禄26石の萩藩士杉百合之助、瀧の次男として生まれる。 叔父である玉木文之進から教育を受ける。
* 1834年:父の弟である吉田大助の仮養子となる 吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった
* 1835年:大助の死とともに吉田家を嗣ぐ
* 1840年:藩主毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
* 1842年:叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける
* 1845年:山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。佐久間からは「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林(小林虎三郎)のみである」と、二人の名前に共通していた「トラ」を引用し「象門の二虎」と褒められている。
* 1851年:東北地方への遊学する際、肥後藩の友人である宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで脱藩行為を行う。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。
* 1852年:亡命の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる
* 1853年:米国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から、予定を繰り上げて出航した為に失敗。
* 1854年:ペリーが日米和親条約締結の為に再航した際にも門弟と二人でポーハタン号へ赴き密航を訴えるが拒否されている。幕府に自首をし、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
* 1855年生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠等維新の指導者となる人材を教える。
* 1858年:幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。
* 1859年:幕府は安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年29。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。その冒頭に記された辞世は”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”

-------------------wikipediaより抜粋----------------------  


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2007年05月15日

★聖徳太子の憲法17条

以和爲貴

和(やはらぎ)を以(もっ)て貴(たつと)しと為す

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604年4月3日に公布された
聖徳太子の憲法17条の最初の一文である。
憲法17条にはこんなことが書いてある。


 1 和を大切にし,人と争わないように心がけなさい。
 2 あつく三宝(さんぽう)を敬え。三宝とは,仏・法・僧であり,仏教を信仰しなさい。
 3 天皇の命令には必ず従いなさい。
 4 すべての役人は礼を守りなさい。礼は民を治め官人の序列をも維持するもの。
 5 私利私欲を捨てて,民の訴えを公正に裁きなさい。
 6 善と悪をよくみきわめて対応しなさい。
 7 自分の任務をきちんと行い,他の職務に干渉してはいけない。
 8 役人は朝早く出勤し,夜遅くまで働きなさい。
 9 善悪は義の根本である信(誠実さ)のあるなしに関係している。心がなければ何事も成功しない。
10 人それぞれに意見が違うのはあたりまえなので,違うからといってむやみに怒ってはいけない。
11 部下の仕事のできをきちんと見極めて賞罰の判断をしなさい。
12 地方の役人は民から税をとってはいけない。
13 役人は同僚や上司の仕事の内容も知っていなさい。
14 役人は他人をうらんだりねたんだりしてはいけない。
15 役人は私情を捨てて,正しく職務を遂行しなさい。
16 民を労役に使うときは,時節をよく考えなさい。農業の忙しい時期に招集してはならない。
17 大事なことは一人で決めず,多くの人々とよく議論してから決めなさい。

604年頃、ヨーロッパではアングロサクソンが
まだ、バイキングをやっている時代である。
日本人というのは、 和を昔から大切にする民族なのである。

世界を救うのは日本人だと、思えませんか?  


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2007年05月14日

速報■薬師寺・大谷徹奘氏、来掛



薬師寺の僧侶
大谷徹奘さんが掛川に来てくれることになりました。

6月20水曜日 18時30分より
会場は 掛川市美感ホール

限定200名様無料御招待致します。

主催■掛川青年会議所
問い合わせ■遠州ナビ 0537-23-5228 山下


私が今、いちばん大事にしている言葉。

「よっぽどの縁ですね。」

の教えを説法してくれますよ。

絶対、聞くべし!聞かなきゃ、損ですぞ。  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 17:18Comments(0)

2007年05月14日

★西田文郎の言葉

自分はツイてると思っていると、ツイてる人が力を
与えてくれて、自分を信じられる強い人間になる。
人間が信じられないのは自分なんです。
でも、誰かを信じると自分自信を信じられるようになる。
そのことを信仰がある人は「信じる者は救われる」
と言うのです。

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確かに、そう思います。
私の場合「人間は疑ってかかる」というのを基本に
生きて来た気がします。
でも、30才になった頃、
本当に信じられる女性に出会った。
それが、私の自信になった気がする。
こんな風に、人を愛することができ
そして愛されているなぁと実感でき
もっとこの人を幸せにしたいと思える。

そんな経験があったことが
今の私の糧になっている。

西田 文郎 (Fumio Nishida)

・株式会社サンリ代表取締役会長
・作家
・スポーツ体力研究所サンリ所長
・ADA能力開発分析協会会長
・NPO法人K-リーグ顧問
・株式会社ビービーエス・ラボ顧問

■生年月日
1949年5月5日生まれ

■主な著書
「ツキを超える成功力」
「人生の目的が見つかる魔法の杖」
「ツキの大原則」
「No.1理論」
発行元:現代書林 定価:1260円

■その他
トレーニングジャーナル
コーチングクリニック
アイアンマン
ビジネスレポート 他多数
(社団法人)日本能率協会、日本経営合理化協会、日本経営士会、中部産業連盟等の講師として日本の経営者、ビジネスマンの能力開発指導にたずさわり大脳生理学と心理学を利用して脳の機能にアプローチする画期的なノウハウ『スーパーブレイントレーニングシステム』を構築。
驚異的なトップビジネスマンを数多く育成している。このノウハウは誰が行っても意欲的になってしまうためナンバーワン講師として高い評価を受けている。
今この画期的な科学的なメンタルマネージメントシステム『S.B.T.』の指導を受けている組織や個人に大変革が起こり、企業の一人あたりの生産性が飛躍的に向上するため『能力開発の魔術師』と言われている。
この『スーパーブレイントレーニングシステム』は日本のビジネス界のみでなく、スポーツの分野では科学的なメンタルトレーニング指導の日本のパイオニアで、これまで多くの選手を指導し成功に導いている。
日本のビジネス界、スポーツ界、教育界、その他多くの分野に科学的なメンタルマネージメントの導入を行ったメンタルトレーニング指導の国内第一人者である。  


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2007年05月13日

★尾崎豊の歌詞

黙ってておくれよ 理屈なんかいらない
甘えだと笑うのも よくわかったから
無意味のような生き方 金のためじゃなく
夢のため 愛のため
そんなものにかけてみるさ

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尾崎豊の「街の風景」の一節です。
高校生の頃この曲を聴いて共感した。

理屈なんていらない!
そんな理屈で片付けられない!って思った。

金がなくたって
夢や 愛があればって…

大人になれば、じゃなくて
歳をとれば歳をとるだけ
現実がみえてきて。

恋愛して溺れたこともあったし
かなわぬ夢に打ち込んだこともあった

今があるのは、そんな経験のおかげなのかな?

今の夢は
遠州ナビという雑誌が、もっと市民のみなさんに
楽しんでいただける雑誌になること
家族みたいに仲良く
スタッフたちとかかわっていくこと
それができれば幸せだ。

尾崎豊
(おざき ゆたか、本名同じ 1965年11月29日 - 1992年4月25日)は、日本の歌手、シンガーソングライター。 東京都世田谷区出身。血液型はB型。ISOTOPE(アイソトープ)所属。
小学校卒業後は本人の強い希望により練馬東中学校(通称・ネリトン)へ越境入学する。練馬東中学校時代は、生徒会副会長を務めた。同期には中田久美がいた。校舎の裏でタバコをふかした場所は今でも残っている。
* 第一志望であった埼玉県内の私学の最難関である慶應義塾志木高等学校に不合格となり、青山学院高等部に進学。さらに、1月15日に受けた陸上自衛隊少年工科学校の1次試験は20倍の競争率を突破して合格。しかし、髪を短くしなくてはいけないと言う理由で、既に合格していた青学に進学することになった。
* 学校から無期限停学処分を受け、ファーストアルバムを制作する契機となる。出席日数が足りず留年となり、自主退学。高校の一期先輩には高橋克典、二期後輩には蓮舫がおり、在学中から他界までそれなりの交流があったともいう説があるがはっきりしない。
* ファーストアルバムでの尾崎豊の歌詞は、何度も何度も書き直されたもので、ソニーでのレコーディングはリテイクの嵐だった。尾崎の持つ情熱をいかに文字として表現させるという事が、当初のテーマであった。
* 尾崎豊は完全な口コミでファン層が広がっていった。このため、ファーストアルバムである『十七歳の地図』は3千枚を売るのも大変で、当初はセールス的には成功しなかった。しかし、その後徐々に人気が出て『卒業』の大ヒットにより、その地位を確立した。
* 10代の頃は大人への反抗や反体制をテーマにした歌を多く歌い、新聞などで「10代の教祖」とも呼ばれたが、本人及びコアなファンはこうした呼称を嫌っていたとも言われている。だが、校内暴力が横行していた時代と相まって一種の社会現象ともなる(深夜に中学校の窓ガラスを割って回るなどの狼藉を働く者は尾崎デビュー前からもいたが、シングル「卒業」の歌詞に触発されて行った若者もあったと見られる)。
* 尾崎の詩を研究するファンにおいても、単なる校内暴力肯定等と解釈することへの批判が見られる。例えば「卒業」にしても「何度自分自身卒業すれば本当の自分にたどり着けるのか」が重要なテーマであって、学校からの卒業は不透明な未来の中で唯一分かっているに過ぎない瑣末なことだ、という見方がある。自らが校舎のガラスを割ったのは先が見えない無力さの発露あるいは愚行であって、自分自身における「卒業」こそが大事だという見方には、歌詞を素直に追っていけばうなずける面もある。
* 尾崎に覚醒剤での逮捕歴があることからしばしば誤解を受けるが、尾崎の死因は、経時的な悪化による薬物中毒死ではなく、司法解剖時に検死をした支倉逸人によれば、致死量の2.64倍以上の覚醒剤服用—オーバードーズによる急性メタンフェタミン中毒が引き起こした肺水腫と結論付けられている。尾崎の遺体には暴行を受けたような傷やあざもあり、また亡くなった日の状況がきわめて不自然であることから、他殺とする説もあるが、真相は不明のままである。(警察は「事件性なし」として調査を終結。-尾崎豊が亡くなってから約2年後に、10万人近くの尾崎ファンの署名を集めた再捜査嘆願書が警察に提出されたが受理されなかった。1999年には写真週刊誌『フライデー』に蘇生措置を施している様子の写真が掲載され、当時の捜査員の証言などもあって、その死因の不可解さはいっそう深まった。)そのため、今までに尾崎の生涯を描いた多数の漫画作品やテレビ番組においても、尾崎が死んだ様子は全く触れられていない。
* 現在、尾崎が倒れていた東京都足立区の千住河原町の民家の部屋は所有者の好意によってファンに開放されており、「尾崎ハウス」と呼ばれ、ファンの交流の場になっている。
* 友人の1人として、デビューが同期の吉川晃司が挙げられる。2人でステージを競演しようとしたが、尾崎が本番前に足を骨折してしまい、実現しなかった。
* プライベートの尾崎は普通の明るい好青年であった。吉川晃司の他に、岡村靖幸との交流も有名であり、大友康平、泉谷しげる、キラー・カーンなども素の尾崎を懐かしむコメントを出している。世間が尾崎に抱くイメージとのギャップが彼を苦しめたのだという意見も根強い。意外にも、光GENJIとしてデビューする以前の大沢樹生とも、よく夜の六本木で遊んでいた。
* また弟分として、俳優の吉岡秀隆がいる。尾崎の影響を受け、曲作りを始めたという。彼が出演した「北の国から」では、尾崎の曲をBGMとして使ったこともある。生前、尾崎豊は自作の小説『幻の少年』を映画化することがあれば、吉岡を主人公にしたいと思っていた。
* 尾崎の代表曲である『I LOVE YOU』はアジア各国の歌手にカバーされ、カバー曲を含めた総売上は全世界で1000万枚に達する。
* その思想や活動、若者におけるカリスマ的人気から、中学・高校などの公教育の現場では長らくタブー視されて来たが、死後、十年以上経った現在では、評価も変わって来ており、高等学校検定教科書に顔写真や『15の夜』の歌詞が掲載されるに及んでいる(『高等学校 新倫理 —人間とは何か 思索の糧に—』 清水書院、2002年)。『新課程用 倫理用語集』(山川出版社、2005年)には、「尾崎豊」は用語頻度“3”で掲載されており(現行教科書11種類のうち3種類の本に記述があるという意味)、「1980年代に活躍し、夭折したシンガーソングライター」「自ら作詞・作曲した歌の世界に没頭しながら全身全霊をこめて歌い」というように記述されている(ISBN 4634053500)。
* 実兄は早稲田大学を卒業後、現在弁護士登録。
* 葬儀は東京都文京区の護国寺にてファン葬が行われ、参列者は4万人で、美空ひばり、吉田茂に次ぐ規模であった。また密葬は日蓮正宗流にて営まれ、墓所は埼玉県所沢市にある。

-----------Wikipediaより抜粋---------------------------  


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2007年05月12日

★平沼赳夫の嘆き

 恫喝(どうかつ)で党議拘束をかけ、違反したからといって除名や除籍になるんなら、筋を通す政治家として名誉なことだ。
我々は何も党内抗争をしようというわけじゃない。私も郵政改革は必要だと思ってますよ。膨大な郵貯資金、簡保資金が、不必要な公共事業や特殊法人の事業に使われてきた。そういうのを正す理念で郵政公社化法ができて、4年間みっちりやってその時点で判断することになっているのに、折り返し地点で何でこんなに拙速にやるのか。
 米国から日本に毎年来ている年次改革要望書を見ると、最右翼に郵政の株式会社化が書いてある。
 345兆円の郵政資金は彼らにとって、のどから手が出るほど魅力的なものなんでしょう。
 何が小泉純一郎という政治家をここまで駆り立てているか、いろいろ想像すると、やはり米国との約束が一番じゃないかという気がしますよ。

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アメリカのもくろみ、郵政改革。その前にも郵政改革によってアメリカが利益を得るための伏線があきらかになっているような出来事があった。
 自己資本比率が足りない銀行には、公的資金を注入し、国有化し、財務体質を改善させて、もう一度、株式市場に上場したところを、自分の国(アメリカ)の所謂ハゲタカファンドに安く買わせ、株価が上がったところで売って、儲けさせることにあった。
 大もうけさせて貰ったアメリカのファンドは当然ブッシュさまさまとなり、選挙の時の資金源、かつ、集票マシーンとして使える。


 郵貯・簡保を民営化する。340兆円を民間企業が管理するということは、アメリカのファンドに買われてしまうかも知れないと言うことだ。
 
 340兆円民営化、と聞いて、あの新生銀行の悪夢を思い浮かべるのではないか。
 今や新生銀行と呼ばれる旧長期信用銀行は経営破綻したときには、一時国有化されて、債権処理のために公的資金が8兆円も投じられた。
 その財源は我々の税金である。
 そして、それらの処理が終わった後に、日本政府は新生銀行を、リップルウッドという投資会社にわずか10億円で売却した。
 一度は上場廃止になった銀行が再び上場することが出来たのは、公的資金を8兆円も使って、財務体質が良くなったからだ。
 再上場直後に、リップルウッドは新生銀行の株を買い、短期間で値を上げた株を売却して、2000億円の儲けを出し、まだ、大量の株を保有していて、その含み益が7500億円もある。1兆円も儲かったのだ。
 もう一度整理すると、
 小泉政権は、日本国民の血税を8兆円も新生銀行に投じた。
 その新生銀行をたった、10億円で、リップルウッドに売った。
 10億円で新生銀行を買ったリップルウッドは、1兆円、儲かった。
 郵貯簡保に預けてあるのは公的資金とか言う人がいるが、あれは全て国民が預けた「民」のカネである。国が預かっていれば、アメリカと言えども買えない。
 しかし、欲しくて仕方がない。小泉元首相は、そのアメリカの求めに応じたのである。
 郵貯・簡保が民間企業になれば、株を買い占められたらおしまいだ。
 アメリカのファンドは新生銀行の時のような、しかも桁違いの大もうけの機会を狙っている。
 だから、ブッシュは小泉元首相に郵政民営化を要求した。 冒頭の記事における平沼氏の発言はそういうことだ。



平沼 赳夫

(ひらぬま たけお、1939年(昭和14年)8月3日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(9期)。

運輸大臣(第73代)、通商産業大臣(第66代)、経済産業大臣(初代・第2代・第3代)を歴任。
現在、北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟(拉致議連)会長。また、日本人拉致問題の解決の妨げになるとして、人権擁護法案に対して反対の立場をとり、真の人権擁護を考える懇談会会長を務める。

小泉内閣では前内閣に引続いて経済産業大臣を2年半にわたって務めるなど重用され、ポスト小泉(将来の自民党総裁兼内閣総理大臣)の有力候補として注目されていたが、2005年7月5日、郵政民営化法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。このため2005年9月11日の第44回衆院選では自民党公認を得られず無所属で出馬。自民党公認の阿部俊子を破り9回目の当選を果たす。特別国会の首班指名では、小泉純一郎に投票したが、郵政法案の衆議院再採決では反対票を投じた。解散総選挙で自民党を非公認になり、無所属で当選した13人のうち再び反対票を投じたのは平沼一人であった(野呂田芳成は欠席)。郵政と選挙における行動によって、自民党から離党勧告処分が下った。ただ、法案に再び反対した平沼には除名処分が確実といわれていたが、首班指名では小泉純一郎に投票したため離党勧告処分にとどまった(野呂田は国民新党の綿貫民輔代表に投票したため除名処分となった)。

離党後も麻生太郎等と会談していた為、いずれは自民党に復党すると見られていたが、2006年の夏には民主党代表の小沢一郎や他の郵政造反組と一緒にゴルフを楽しんだり、一新会の勉強会で講演する等と民主党に接近する動きもあり、今後の動向が注目を集めている。日本会議国会議員懇談会会長を務める。

2006年10月以降に注目された郵政造反組復党問題では無所属造反議員の中心となり、自民党執行部との交渉役となっていたが、厳しい復党条件に反発し誓約書にただ一人署名せず、他の11人の復党を先行させる傍ら自らの復党は見送る判断をした。

生命の実相を愛読書とする。

---------------------Wikipediaより抜粋--------------------  


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2007年05月11日

★本田宗一郎の言葉

人間の努力は、いつの場合でも最良の結果を生むとは
限らない。
なぜかといえば、努力それ自体は、まったく意志を持たない
一つのモーションなのである。
たとえば、いくらモーションがよくても、
必ずしもストライクだとは限らないのである。
投手のコントロールの良さがあって
モーションも生きるのである。
努力はその時の情勢にもっとも緊急の効力を
生んではじめて努力として認められる。
努力したが、結果はダメだったのでは努力にならない。

仕事の中に能力を活用しなかったり
方法を選ばなかったりしたら
それは徒労という一種の道楽に終わる。
努力には、創意と工夫が必要である。

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手厳しい本田宗一郎さんの言葉。
よく努力したから、その努力がいつか身を結ぶというけど
本田さんの場合は、そう考えてなかったみたいだ。
プロジェクトに対して、最良の結果を出す。
この使命が果たせないと
会社は悪い方向に進んでいく。
創意+工夫+努力=成功 である。

本田 宗一郎

(ほんだ そういちろう、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は日本の実業家。 本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。正三位 勲一等 ミシガン工科大学名誉工学博士。 ソニーの井深大などと並んで、戦後日本を代表する技術者・起業家として世界的に知られている。血液型はA型。
宗一郎が11歳の時、浜松に飛行機の曲芸飛行が行われると知り、親の財布からお金を盗みこっそり夜中に家を出て父親の自転車で不自然な格好でペダルを漕ぎ(いわゆる三角乗り)一晩かけて浜松の飛行場を目指した。
* 20歳当時、人と同じことをするのが嫌いだった宗一郎はまだめずらしかった洋服を好んで着ていた。
* 本田は会社の判子を藤沢に預け、会社の経営は全て藤沢に任せていた。本田自身は技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述べている。互いに「落合」(本田の自宅のある所)・「六本木」(藤沢の自宅のある所)とざっくばらんに呼び合っていた。この言葉の裏には「お互い全力で切磋琢磨することで現在のホンダが築きあげられた」という意味が込められている。また両者は、「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、本田と藤沢は身内を入社させなかった。盟友の井深大が、自らの会社名を「ソニー」と名付けたことに対し、後年本田は自らの名を社名に冠したことを非常に後悔したという。
* 鈴鹿製作所の完成前に、鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話。また、とても便利とはいえない三重県鈴鹿市に工場を置いたのは、担当の役人の、接待や金銭など一切関係なく、「渋茶一杯」で誠実に説明してくる熱意に惹かれたからだ、という。ちなみにその時宗一郎は岐阜県大垣市とどちらかに工場を建設する予定だったが、宗一郎が大垣市を訪れたとき、クーラーの効いた部屋でオレンジジュースを出されたという。
* 有名な言葉には「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」1988年、初めてF1ワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナの記念パーティの席でセナに対し「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」等がある。また、本田の膝下で働いていた社員達は宗一郎を「オヤジ」と呼んで慕っていた。
* F1でのホンダターボエンジンの圧勝を面白く思わないFISA(現FIA)はターボエンジンを禁止、NAエンジンのみの規制を掛けた。これに憤慨したチーム監督の桜井淑敏らは本田宗一郎に直訴したが、それを聞いた本田は「ホンダだけがターボ禁止なのか? 違うのか、馬鹿な奴等だ。ホンダだけに規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ話ってのは?」と言い、桜井等は「いいんです、何でもありません」と嬉しくなってしまった。
* 南青山の本社ビルを新築する際、本田は「万が一地震が起こったときに、割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し、このビルには全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。
* 生前から自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけないと公言。実際、遺族はこの遺志に従い通夜・社葬を行わなかった。そのかわり控えめな社葬と言える「お礼の会」が東京都港区青山のホンダ本社・和光・鈴鹿・熊本の各製作所で執り行われた。
* 浜松でアート商会創業当時より、本田は派手なシャツやネクタイを締め、朝から晩まで試作車のバイクを乗り回した。田舎では、そんな姿が揶揄されたり、資金繰りが面倒(地方の金融業者は、借りた金をすぐに回収にかかっていた)だったりで、都会でのびのびと仕事をしたいと考えていた。
* 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したり「遊んで」いたという。しかしこの遊びの中から自転車にエンジンをつけることを思いつき、後のオートバイ研究が始まるのであった。
* 勲一等瑞宝章受賞授賞式の際に、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとした(周囲に止められ、礼服で出席)。
* 宗一郎は経営難に陥ったときマン島TTレース(二輪)やフォーミュラ1〈四輪)などの世界のビッグ・レースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚をはかることで経営を立て直した。「苦しいときの神頼み」ならぬ「苦しいときのレース頼み」と呼ばれている。
* 上記のような神話的エピソードが喧伝されることについて、ホンダ副社長だった藤沢武夫は深い危惧を覚えていたという。いわゆる「本田宗一郎伝説」が、長期的に見てホンダにとってマイナスになりかねないと考えていたかららしい。
* 親族を会社に入れなかったという件に関しては正確ではなく、実は早世した次男を後継者にしたがっていたという説や、三菱銀行に融資を求める際、渋る銀行側に対し世襲はしないと約束して融資を受けた説がある。また宗一郎の実弟の弁二郎はホンダの重職にあった。ただし、実弟も宗一郎と同様にアート商会(本家)で奉公し、年季が明けた後に宗一郎の経営する浜松支店に職人として勤務し、それ以後も宗一郎に付き合っているだけであり、本田技研および本田技研工業の発足以降に縁故入社したというわけではない。
* 二代目社長の河島喜好は、大学卒業後に就職先に困っていたところ、偶然に父が宗一郎と顔見知りで、たまたま自宅からも近かったので父と一緒に宗一郎を訪問したら、「じゃあ、明日からウチに来るか」と誘われて本田技研に就職したというエピソードがある(当時のホンダは、個人事業の延長で大らかな時代だった)。
* 本田が逝去した91年、鈴鹿で行われたWGPで長嶋茂雄が大会名誉顧問にされ、そこでのインタビューで「このスズキサーキットで・・・」以下云々のコメントを発し、鈴鹿サーキット、ホンダ関係者を突然ライバルメーカーの名前を出したことによって顔を真っ青にさせていた。
* このように「本田宗一郎伝説」はかなり都合良く脚色されている面も多い。4輪では空冷エンジンに固執したり、2輪では2ストロークエンジンを頑なに否定したりという技術的な誤りも含め(2輪の2ストロークエンジンは彼の死後、環境基準に適合できなくなって廃れてゆくが、それは宗一郎の意識とは関係がない)、宗一郎の歩みには間違いも多かった。ただし、時代背景を考えると、当時の小型車であれば空冷エンジンという選択は特に間違いでもなく(実際にポルシェは90年代まで大排気量の空冷エンジンを製造している)、2ストロークエンジンは構造上排気ガスの汚染度が4ストロークより高いという問題があり、現在は廃れる流れであるなど、それらの選択は、企業としてのこだわりや思想の範疇でもあり、単に宗一郎というカリスマを批判するための批判かと思われる。
* 記者から「本田さんは工学博士は無理でも、ロの付いたエロ博士はすぐ取れる」と言われた事に、「これからの未来は、女性が車を乗る時代が来るだろうし、女性にアピールする車を作らないといけない。世の中に女性がいなかったら、俺は毛生え薬を試す事はないだろうし、服はドンゴロスに穴を開けたもので十分だが、女性がいるからこそ、クルマも女性に注目されないといけない」と言った。

-------------Wikipediaより抜粋-----------------------  


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2007年05月10日

★相田みつをの詩

雨の日には 雨の中を
風の日には 風の中を

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あたりまえの生き方
雨の日を天気のいい日と比べて
悪い日だと思う、人間中心の考え方をやめること。
雨の日には雨を、そのまま全面的に受け入れて
雨の中を雨と共に生きる。
風の日には、風の中を
風と一緒に生きてゆくという意味。
つまり特別なことではない
ごくあたりまえの生き方のことです。
あたりまえだけれど、これは常に前向きで
積極的に生きるということです。
そしてこな場合の雨や風は次から次へと
起きてくる人間の悩みや迷いのことです。

相田 みつを
(あいだ みつを、本名は相田光男、1924年5月20日 - 1991年12月17日)は詩人・書家。

栃木県南西部の足利市に生まれ、旧制栃木県立足利中学校(現栃木県立足利高等学校)卒業後、歌人・山下陸奥に師事。1942年に曹洞宗高福寺の武井哲応老師と出会い、在家しながら仏法を学ぶ。1943年に書家である岩沢渓石に師事、全国各地で展覧会を開催。1991年12月17日、足利市内の病院で、脳内出血により永眠する。享年67。1996年、銀座に相田みつを美術館が開館、後に東京国際フォーラムに移転した。  


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2007年05月09日

★杉原千畝の決心

私の一存で彼等たちを救おう。
そのために処罰を受けてもそれは仕方ない。
人間として信念を貫かなければ…
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第2次世界大戦の最中、6000人ものユダヤ人を人道的立場から
救った男。あの異常な雰囲気の中で自分の立場や身を顧みず
人としての良心に従って行動した杉原氏を尊敬する。

杉原 千畝
(すぎはら ちうね、SUGIHARA "Sempo" Chiune、1900年1月1日 - 1986年7月31日)は日本の官僚、外交官。

第二次世界大戦中、トランジットビザ(Transit visa.通過査証、通過ビザとも。以下ビザと記載)を発給することでナチス・ドイツによる迫害から約6000人ものユダヤ人を救った。海外では、センポ・スギハラ、「日本のシンドラー」とも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばせた理由は主に「ちうね」という発音のしにくさから、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
1940年夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。ソ連がリトアニアを併合し、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館(当時日ソは不可侵条約を結んでおり、国際法上日本領土とみなされる日本領事館は最後まで業務を続けることが出来た)に通過ビザを求めて殺到した。当時、日本政府はユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていたとはいえ、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは外務省ユダヤ難民取り扱い規則により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。ユダヤ人難民のほとんどはこの受給資格を欠いていたため、千畝は本国外務省に伺いを立てるが、発給は許可されない。

1940年7月18日、千畝は外務省に緊急のビザ発給許可要請をするも、翌日に届いた返答は「ビザの許可は内閣改造中ゆえ発給できない」というものであった。新内閣の発足後、外務大臣 松岡洋右に直接、人道的なビザ発給の許可要請を再度行うも、7月23日、松岡洋右大臣直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない。」という通告が発せられた。それは千畝にとっては事実上の最後通告であった。また同時期、ソ連からリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。

こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年7月25日、千畝は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、千畝と妻・幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1ヶ月余りビザを書き続けたとされる。その間発行されたビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚。しかし、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのをやめてしまったと言われている。そのため、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明証が発給されたという説もある。また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。途中ビザに貼り付ける印紙が無くなってしまったが、杉原は職権により「出国のための領事特別許可証(通過ビザと同様の内容。ビザより発行要件が簡素で、迅速な出国の必要があるときなど緊急時に用いられるが超法規的意味合いが強い)」の発行を行い、ソ連による自身への退去指示の期限ぎりぎりまで更に多くのユダヤ人を出国させた。領事特別許可証による出国者は多数に上るが、人数は定かではない(発給記録が残っていないため)。領事特別許可証の発行はベルリン行き列車の出発寸前まで駅ホームで続けられた。  


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2007年05月08日

★羽根拓也の言葉

自分は何がしたくて、どういう方向に行きたいのか
ということをきちんと気づき理解して言語化できていると
それが思考のうえでの判断材料になるし
火を燃やし続けて目標を達成するための行動にもつながる。

原理原則を言語化できるようにもっていけば
僕達はいかようにも進化できるのです。

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相手に思いを伝えるとき、やはり自分の考えていることが
きちんと伝わらなければ、その事業はうまくいかない。
遠州ナビのスタッフと接するとき、いつも気にかけているのは
「僕達は自分の利益のためだけに、この街で商売をするのではないよ」
「お金じゃ買えない何かを、この街で確立するんだ」
ってことが伝わるようにと思っています。

それがスタッフに伝わっていれば
スポンサーの皆様にも、きっとわかってもらえる。

だけど、言語化するのは、かなりエネルギーのいる作業だ。


羽根 拓也Hane Takuya


株式会社アクティブラーニング
代表取締役社長  
アクティブラーニングスクール代表

同志社大学卒業。90年まで日本の塾、予備校、語学学校等で人気講師として活躍。 日本の教育スタイルに疑問をもち、海外での教育経験を求め、渡米。90年文化国際交流センター(東京)の試験に合格し、91年アメリカペンシルバニア州のサスクェハナ大学に日本語客員講師として派遣され、24歳で米大学教壇に立つ。その後、ペンシルバニア大学、ハーバード大学等、有名大学で教授経験を積み、そのオリジナリティあふれる教授法はアメリカでも高い評価を得る。94年ハーバード大学より「優秀指導証書」(Certificate of Distinction in Teaching)を受賞。  


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2007年05月07日

★新渡戸稲造の武士道

約10年前、著名なベルギーの法学者、
故ラヴレー氏の家で歓待を受けて数日を過ごした。
ある日の散策中、私たちの会話が宗教の話題に及んだ。
「あなたがたの学校では宗教教育をいうものがない、とおっしゃるのですか」
とこの高名な学者が訪ねられた。
 私が「ありません」という返事をすると
氏は驚きのあまり突然歩みを止められた。そして忘れがたい声で
「宗教がないとは、いったいどうやって子孫に道徳を授けるのですか?」
と繰り返された。
 その時、私は愕然とした。
なぜなら、私が幼いころ学んだ人の道は
学校で受けたものではなかったからだ…
 そこで私に善悪の観念をつくりださせた様々な要素を分析すると
そのような観念を吹き込んだものは
「武士道」であることがようやくわかった。

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だいぶ前の話だが、中国から留学している娘さんと
たまたま仕事で一緒になることがあった。
彼女は卒業論文で日本の特徴を書くことに決めたらしいが
その題材を「武士道」にすると言うのだ。
 彼女が言うには
「日本人はみんな優しく真面目で信頼できる。中国では、そんなことはない。その根本的な違いは、武士道にあると思えるんです」
 私は、何も言えなかった。
そう言えば、そんなこと意識してなかったと思いました。
いつのまにか根づいていた、武士道。

もう一度、この精神を勉強しなければならない
時代が到来したような気がする。


新渡戸 稲造
(にとべ いなぞう、文久2年8月8日(1862年9月1日) - 1933年10月15日)は、農学者、教育者。国際連盟事務次長も務め、著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われている。日本銀行券のD五千円券の肖像としても知られる。札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・S・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。 祖父達同様かなり熱い硬骨漢であった。ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられた
東京帝国大学進学後、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンスを中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後ハレ大学より博士号を得て帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニアで転地療養。この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 09:34Comments(0)

2007年05月06日

★ラジャー・ダト・ノンチック

かつて 日本人は 清らかで美しかった
かつて 日本人は 親切で心豊かだった
アジアの国の誰にでも 自分のことのように
一生懸命つくしてくれた

何千万人もの 人の中には
少しは変な人もいたし 
おこりんぼや 我が儘な人もいた 
自分の考えを 押しつけて
威張ってばかりいる人だって 
いなかったわけじゃない

 

でも、その頃の日本人は 
そんな少しの嫌なことや 不愉快さを越えて
大らかで 真面目で 希望に満ちて明るかった

 

戦後の日本人は 自分達日本人のことを
悪者だと思い込まされた
学校でも ジャーナリズムも
そうだとしか教えなかったから 
真面目に 自分達の父祖や先輩は
悪いことばかりした 残酷無情な
ひどい人達だったと 思っているようだ
だから アジアの国に行ったら ひたすら ペコペコ謝って
私達はそんなことはしませんと 言えばよいと思っている
そのくせ 経済力がついてきて 技術が向上してくると
自分の国や 自分までが 偉いと思うようになってきて
うわべや 口先だけでは 済まなかった 悪かったと言いながら 
独りよがりの 自分本位の 偉そうな態度をする
そんな 今の日本人が 心配だ

 

本当に どうなっちまったんだろう
日本人は そんなはずじゃなかったのに
本当の日本人を 知っている 私達には
今はいつも 歯がゆくて 悔しい思いがする

 

自分のことや 自分の会社の利益ばかりを考えて
こせこせと 身勝手な行動ばかりしている
ヒョロヒョロの日本人は これが本当の日本人なのだろうか
自分達だけでは 集まって
自分達だけの 楽しみや 贅沢に耽りながら
自分がお世話になって住んでいる
自分の会社が仕事をしている   
その国と 国民のことを 蔑んだ眼でみたり バカにしたりする
こんな 人達と 本当に仲良くしてゆけるだろうか
どうして どうして日本人は こんなになってしまったんだ

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マレーシアの元上院議員が書いた詩の一部。
みなさんは、どんなことを感じるだろう。
他所の国から
こんな風に見られているなんて…

戦争を起したあの頃の日本人を否定する今がある。
しかし、他所の国の方々は、あの頃の日本人の方が
清らかで心美しかった
と書いているのだ。
重く受け入れなければならない。


ラジャー・ダト・ノンチック

南方特別留学生、ASCOJA初代会長、元上院・下院議員、ASEAN設立  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 19:11Comments(1)

2007年05月05日

★セヴァン・スズキのスピーチ

こんにちは、セヴァン・スズキです。エコを代表してお話しします。エコというのは、子供環境運動(エンヴァイロンメンタル・チルドレンズ・オーガニゼェーション)の略です。カナダの12歳から13歳の子どもたちの集まりで、今の世界を変えるためにがんばっています。あなたがた大人たちにも、ぜひ生き方をかえていただくようお願いするために、自分たちで費用をためて、カナダからブラジルまで1万キロの旅をして来ました。

 今日の私の話には、ウラもオモテもありません。なぜって、私が環境運動をしているのは、私自身の未来のため。自分の未来を失うことは、選挙で負けたり、株で損したりするのとはわけがちがうんですから。

 私がここに立って話をしているのは、未来に生きる子どもたちのためです。世界中の飢えに苦しむ子どもたちのためです。そして、もう行くところもなく、死に絶えようとしている無数の動物たちのためです。

 太陽のもとにでるのが、私はこわい。オゾン層に穴があいたから。呼吸をすることさえこわい。空気にどんな毒が入っているかもしれないから。父とよくバンクーバーで釣りをしたものです。数年前に、体中ガンでおかされた魚に出会うまで。そして今、動物や植物たちが毎日のように絶滅していくのを、私たちは耳にします。それらは、もう永遠にもどってはこないんです。

 私の世代には、夢があります。いつか野生の動物たちの群れや、たくさんの鳥や蝶が舞うジャングルを見ることです。でも、私の子どもたちの世代は、もうそんな夢をもつこともできなくなるのではないか?あなたがたは、私ぐらいのとしの時に、そんなことを心配したことがありますか。

 こんな大変なことが、ものすごいいきおいで起こっているのに、私たち人間ときたら、まるでまだまだ余裕があるようなのんきな顔をしています。まだ子どもの私には、この危機を救うのに何をしたらいいのかはっきりわかりません。でも、あなたがた大人にも知ってほしいんです。あなたがたもよい解決法なんてもっていないっていうことを。オゾン層にあいた穴をどうやってふさぐのか、あなたは知らないでしょう。死んだ川にどうやってサケを呼びもどすのか、あなたは知らないでしょう。絶滅した動物をどうやって生きかえらせるのか、あなたは知らないでしょう。そして、今や砂漠となってしまった場所にどうやって森をよみがえらせるのかあなたは知らないでしょう。

 どうやって直すのかわからないものを、こわしつづけるのはもうやめてください。

 ここでは、あなたがたは政府とか企業とか団体とかの代表でしょう。あるいは、報道関係者か政治家かもしれない。でもほんとうは、あなたがたもだれかの母親であり、父親であり、姉妹であり、兄弟であり、おばであり、おじなんです。そしてあなたがたのだれもが、だれかの子どもなんです。

 私はまだ子どもですが、ここにいる私たちみんなが同じ大きな家族の一員であることを知っています。そうです50億以上の人間からなる大家族。いいえ、実は3千万種類の生物からなる大家族です。国境や各国の政府がどんなに私たちを分けへだてようとしても、このことは変えようがありません。私は子どもですが、みんながこの大家族の一員であり、ひとつの目標に向けて心をひとつにして行動しなければならないことを知っています。私は怒っています。でも、自分を見失ってはいません。私は恐い。でも、自分の気持ちを世界中に伝えることを、私は恐れません。

 私の国でのむだ使いはたいへんなものです。買っては捨て、また買っては捨てています。それでも物を浪費しつづける北の国々は、南の国々と富を分かちあおうとはしません。物がありあまっているのに、私たちは自分の富を、そのほんの少しでも手ばなすのがこわいんです。 カナダの私たちは十分な食物と水と住まいを持つめぐまれた生活をしています。時計、自転車、コンピューター、テレビ、私たちの持っているものを数えあげたら何日もかかることでしょう。

 2日前ここブラジルで、家のないストリートチルドレンと出会い、私たちはショックを受けました。ひとりの子どもが私たちにこう言いました。
 「ぼくが金持ちだったらなぁ。もしそうなら、家のない子すべてに、食べ物と、着る物と、薬と、住む場所と、やさしさと愛情をあげるのに。」
 家もなにもないひとりの子どもが、分かちあうことを考えているというのに、すべてを持っている私たちがこんなに欲が深いのは、いったいどうしてなんでしょう。

 これらのめぐまれない子どもたちが、私と同じぐらいの年だということが、私の頭をはなれません。どこに生れついたかによって、こんなにも人生がちがってしまう。私がリオの貧民窟に住む子どものひとりだったかもしれないんです。ソマリアの飢えた子どもだったかも、中東の戦争で犠牲になるか、インドでこじきをしてたかもしれないんです。

 もし戦争のために使われているお金をぜんぶ、貧しさと環境問題を解決するために使えばこの地球はすばらしい星になるでしょう。私はまだ子どもだけどこのことを知っています。

 学校で、いや、幼稚園でさえ、あなたがた大人は私たちに、世のなかでどうふるまうかを教えてくれます。たとえば、
 

* 争いをしないこと
* 話しあいで解決すること
* 他人を尊重すること
* ちらかしたら自分でかたずけること
* ほかの生き物をむやみに傷つけないこと
* 分かちあうこと
* そして欲ばらないこと


 ならばなぜ、あなたがたは、私たちにするなということをしているんですか。

 なぜあなたがたがこうした会議に出席しているのか、どうか忘れないでください。そしていったい誰のためにやっているのか。それはあなたがたの子ども、つまり私たちのためです。あなたがたはこうした会議で、私たちがどんな世界に育ち生きていくのかを決めているんです。 親たちはよく「だいじょうぶ。すべてうまくいくよ」といって子供たちをなぐさめるものです。あるいは、「できるだけのことはしてるから」とか、「この世の終わりじゃあるまいし」とか。しかし大人たちはもうこんななぐさめの言葉さえ使うことができなくなっているようです。おききしますが、私たち子どもの未来を真剣に考えたことがありますか。

 父はいつも私に不言実行、つまり、なにをいうかではなく、なにをするかでその人の値うちが決まる、といいます。しかしあなたがた大人がやっていることのせいで、私たちは泣いています。あなたがたはいつも私たちを愛しているといいます。しかし、私はいわせてもらいたい。もしそのことばが本当なら、どうか、本当だということを行動でしめしてください。

 最後まで私の話をきいてくださってありがとうございました。

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1992年の地球サミット(リオデジャネイロ)で、セヴァン=スズキという12歳の少女が「伝説のスピーチ」を行いました。最近、日本のテレビ番組でも彼女の活動を特集したものがありましたね。彼女のスピーチほど人々の環境に対する関心を促す、そしてサステイナビリティという考え方を鮮烈に物語るものは無いと断言できます。環境団体や科学者、政治家がどんなに理屈をこねてみたところで絶対に動かすことの出来ない何かを、この12歳の少女スピーチは動かす力を持っています。

ほんとうにほっとくことができない地球の環境問題、
本気で考えていかなければなりません。

  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 08:43Comments(0)

2007年05月02日

★桜井和寿の歌詞

どんな不幸からでも 喜びを拾い上げ
笑って暮す才能を 誰もが持ってる

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センター オブ ユニバーズの歌詞のひとくだりです。
私は笑うという行為が、人間には最も大切なことだと思っています。
だからいつもニコニコしている私がいます。
いつも笑いをとろうとする私がいます。
遠州ナビのスタッフにも浸透してきて
みんな道化ができるようになってきました。
笑顔があれば、病気もふきとばせます。
笑顔があれば、憎しみはふきとばせます。
笑顔があれば、貧乏だって大丈夫。

笑って生きていきたいです。

桜井和寿

(さくらい かずとし、本名:櫻井和寿(読み方は同じ) 男性、1970年3月8日 - )は、東京都練馬区出身のミュージシャン。Mr.Childrenのメインボーカル、ギタリスト。烏龍舎、カズプロダクション所属。O型。身長172cm。体重64kg。関東高校(現聖徳学園高校)卒業。 Mr.Childrenのほとんどの楽曲の作詞・作曲を手がけている。

「ap bank」「Bank Band」での活動の際には、本名である「櫻井和寿」の名義を用いる。また、Mr.Childrenのアルバム『深海』以降は作詞・作曲の際に「Kazutoshi Sakurai」「KAZUTOSHI SAKURAI」の表記を使用することが多くなっている。

「Mr.Children」のほか、「Bank Band」の活動を積極的に行っている。アルバム『Atomic Heart』以後はほぼ全ての楽曲の作詞・作曲を手がける。オリコン集計で、シングル10枚、アルバム11枚でミリオンセラーを記録し、日本を代表するミュージシャンとして名を馳せる。
愛称はエロオヤジ(自認・公認)。桑田佳祐からは「和くん」と呼ばれている。「桜井さん」と呼ばれることが多いが、ファンからは「サクちゃん」「和ちゃん」などと呼ばれたりもする。
* 下ネタやオヤジギャグが大好きで、ライブのMC中は満面の笑みで連発している。(以前ツアーのMCでは、「先祖がいたから、今の自分がいる。すごくありがたいことで、先祖には感謝しなければならない。そう思ったら急にお仏壇がピンク色に見えてきてしまった(笑)」と話したこともある)
* その風貌が政治家の小泉純一郎に似ているとの風評がある。このことは小泉自らも、女子高生との対談中指摘されたり、「『政界のミスチル』をキャッチコピーに」とのすすめを受けたりしたこともある(小泉本人も、まんざらではなかったらしい)。
* 小学生のときはヤンチャで、意外にも音楽は大嫌いだったと語っており、歌のテストでは先生に叱られても歌わなかったという・・・のが噂だが某ラジオでは歌に関しては褒められていた、と発言している。
* 両親の「何か一つ“これだけは誰にも負けない”というものを身につけろ」という教育方針のもと育ったため、スポーツが得意で、体育の成績はずば抜けてよかったという。少年時代は野球少年で、試合などではホームランを打っており、監督がチームメイトに「桜井を見習え」と言うほどの万能選手であった。空手も習っていた。
* 中学生のとき落語研究会に所属し、坊主頭で「一休寿(いっきゅうことぶき)」として活動していた。
* 関東高校の1年後輩に現西武ライオンズの江藤智、漫画家の安野モヨコ、元バレーボール日本代表の泉川正幸がいる。
* お笑いが好きで、年末年始は家でお笑い番組を観て楽しんでいる。ネプチューンやホンジャマカが特に好きで、ライブも観に行っている。
* ヘアメイクアーティストのきっこが運営する「きっこの日記」において「あんな歌を歌ってるクセに、歌詞とはウラハラに、ホントに嫌なヤツだ。あたしの友達がお茶を出したら、他の人は黙って飲んでたのに、桜井は『こんなぬるいお茶、飲めるか!』って言って、テーブルに湯飲みを叩きつけた。つい先日も、某デパートの家具売場で、はしゃぎまわるよその子供を鬼のような形相で睨みつけ、泣かしていた。桜井の子供嫌いは知ってたけど、見ているこっちまで恐ろしくなった。売れたとたんに、苦労をともにして来た奥さんを捨てるだけのことはある。偽善者とは、彼のためにある言葉だ。」と記載されている。
* 大のサッカー好きでもあり、一時期サッカー日本代表に憧れてツアー中はメンバー全員おそろいのスーツで移動していたこともある。数多くの現役サッカー選手と交友があり、プライベートで試合を観に行ったりしている。笑っていいとものテレフォンショッキングに出演した際にはジュビロ磐田選手会一同から花が届いていた。特に名波浩と仲が良く、『I'LL BE』は名波のために作り、彼がイタリアに移籍する際には自ら名波への花束贈呈にジュビロ磐田スタジアムに登場した。またサッカー選手の中にも稲本潤一、中村俊輔など多数のMr.Childrenファンがいる。
* 「ジュビケン」というサッカーチームを結成しており、昔はサッカーの試合日程を決めてから仕事のスケジュールを決めていた。ポジションはFW。ちなみに「ジュビケン」とは「ジュビロ磐田研究会」の略。その他にもMr.Childrenのメンバーの田原が監督の「ジミケン」という野球チームに所属している。
* 実家が工務店を営んでいたという環境もあり、『innocent world』の頃まで本気で大工になるのが夢であった。
* 好きな本は、写真集『世界の子供たち』(新潮社)、『Happy News』等。
* 桜井がギターを始めたきっかけは、姉のギターを借りて『禁じられた遊び』を弾いていた時、姉に「あんた天才なんじゃない?」と言われ、その冷やかしを真に受けてしまったことによるという。
* 好きな食べ物はケーキ、クレープ。
* 影響を受けたミュージシャンは浜田省吾、甲斐バンド。
* 愛聴盤はピーコの『恋は一日のように』。「LuckyRaccoonNight vol.1」では一曲目にこのアルバムの中の『いつ帰ってくるの』を歌い、観客の度肝を抜いた。
* タバコの煙が大嫌い。昔は吸っていたが「不味いのにかっこつけて無理して吸ってる感じが嫌」という理由で禁煙した。
* ギターを弾くために、右手の親指の爪を長くしている。
* 日々の鍛錬として、運動後のストレッチと、風呂上りのヨーガを欠かさず行っている。
* モンちゃん、キーちゃんというリス猿を飼っている。
* 「実家にファンが来たらミュージシャンを辞める」と公言していることは有名。
* 山形県鶴岡市に別荘(実際には別荘兼スタジオ)があり、地元では知らない人はいないぐらい有名である。彼の母が山形県出身で、学生時代は夏休みになると毎年のように山形の海に来ており、本人曰く「ここが自分自身を成長させてくれた」。また仕事以外では東京にいることを嫌い、音楽活動はほとんど山形で行っており、『蘇生』の歌詞については実際に車を走らせている時に虹が出て、それを写真に撮ろうとした時に虹は消えていたという逸話がある。
* 老後は田舎で自給自足生活をしたいと考えている。
* スガシカオと仲が良く、お互いの家で食事会をすることもある。また、新曲ができるとスガの家まで歩いて届けに行くそうだが、あえてインターフォンは鳴らさずポストにCDだけ入れて帰っていくという。スガシカオのOH! MY RADIOにゲストで出た際「天然ですよね」と暴露されていた。
* 昔、自分の声が気に入らなくて、ウィスキーをコーラで割って飲んでは叫びまくって声を潰したという。
* 自分の身体や心をいじめるのが好きで、基本的にMだという。「趣味はトレーニング」と言っていた時期もあり、坂道ダッシュをしたり心拍数を190まで上げてトレーニングしたりしていた。しかし、小脳梗塞で倒れてからは「頑張りすぎない」をテーマにやっているという。
* 好きな漫画は井上雄彦の『バガボンド』。桜井と井上は週刊ヤングジャンプで対談したこともある。余談だが、井上の『リアル』5巻にはMr.Childrenのアルバム『シフクノオト』が登場している。
* メンバー曰く、非常に責任感が強い性格。桜井自身は、根がオタクだと語っている。
* カラオケでよく歌うのはスガシカオとBUMP OF CHICKEN。前者は前述の通りプライベートでも親しく、後者は「スノースマイルが大好きだ」と本人が雑誌中で発言していたことがある。
* ライブのMCやテレビ番組でのトークがとにかく苦手だと語っており、ライブDVDでは「MCをカットして下さい」と頼んでいるという。MCがノーカットで収録されているのは、桜井が病気療養から復帰後に一夜限りで行われたライブの模様を収録した『wonederful world on DEC 21』だけである。
* 海が大好きで、サーフィンもしている。
* Bank Band with Salyuとしてミュージックステーションに出演した際、用意されたお弁当を食べずに持ち帰った。理由は「のり弁だから・・・本番前に食べると歯についちゃうから・・・」だという。(Salyu談)
* 酒はかなり飲むほうで、過去に何度か急性アルコール中毒になり救急車で運ばれたことがある。

* 1993年のMEET THE WORLD BEATの打ち上げでは飲みすぎて急性アルコール中毒で倒れてしまい、白地に赤いラインが入り、上には綺麗な赤いランプが点滅している変わったタクシー(救急車)で運ばれていった。(KAN談)
* 『奇跡の地球』レコーディング前夜に尊敬する浜田省吾と仙台で初めて会い、緊張のせいで飲みすぎて急性アルコール中毒で倒れ救急車で搬送されてしまい、翌日のレコーディングを飛ばして(休んで)しまった。(ミュージックステーションのトークにて)
* 1999年2月2日、うたばん初出演時にアルコール度数の高いお酒を持って登場し全員が酔っ払ってしまい、司会者曰く「うたばん史上最悪のトーク」に。桜井は収録後に容態が急変し吐いてしまった。


* 桑田佳祐主催の夢人島Fesで最後に出演者全員で『希望の轍』を歌っている時、GLAYのTERUに対して、「一緒に向こうまで走ろうよ!みんなを追い越すよ!」と言ったらしく、ミュージックステーションで「少年のような人でした」と言われていた。        
* ギターとベースの腕は田原と中川よりも上だと思っていた。(スペースシャワーTVのトークにて)

--------wikipediaより抜粋--------------  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 08:51Comments(1)

2007年05月01日

★山下隆男の言葉

俺んちは貧乏だったから何を食べても美味しく思うよ。
仕事の途中で食堂に弟と入って
とん汁を2つ注文したもんだ。
飯は、日の丸弁当2つ持込みで。
みんなとんかつとか食べてる中でな…
あの頃の貧しさから比べれば、本当に幸せだと思えるよ。

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私の親父の言葉です。
親父の家は6人兄弟で大変貧しかったらしい。
長男だったから中学を出てすぐ働いた。
だから私には大学まで行かせたかった。と言ってました。

ありがたいことです。

親父は、どんなおかずが出ても、文句を言わずもくもくと食べます。
お店で頂いた後は必ず「ごっそうさ〜ん」と調理場に言います。

「いただきます」
「ごちそうさま」は日本人として必ず言うべきです。

食材が動物にしろ、植物にしろ
命をいただくのですから…

山下隆男

1945年6月18日生まれ
静岡県周知郡森町大河内出身
父、山下計夫 母、山下つた 
6人兄弟の長男として生まれる  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 20:41Comments(0)

2007年05月01日

★白州次郎の言葉

われわれは戦争に負けたのであって
奴隷になったのではない。

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大東亜戦争に負けた日本は、憲法改正などの激動の時代を迎えた。
敗戦国として自信をなくしていた日本の政治家たちのなかで
占領軍に対し対等な立場で話し合いをするべきという態度をつらぬいた。

今の政治家さんたちも見習うべき点が多いのでは…

私の会社も小さい会社だが、大きい相手に対しても
対等な立場で意見を言うプライドを持ちたいものだ。


白洲次郎

(しらす じろう、1902年2月17日 - 1985年11月28日)は、日本の実業家。終戦直後GHQ支配下の日本で吉田茂の側近として活躍し、貿易庁(通産省)長官等をつとめる。独立復興後は、東北電力会長等を歴任した。夫人は、作家・随筆家の白洲正子。

妻、白洲正子は随筆家、長男(第一子)白洲春正は元東宝東和社長、次男(第二子)白洲兼正、長女(第三子)白洲(現姓:牧山)桂子は旧白洲邸・武相荘館長。
1945年(昭和20年)東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣に就任した吉田茂の懇請で終戦連絡中央事務局(終連)の参与に就任する。ここから、白洲次郎の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)を向こうに回した戦いの火蓋が切られる。白洲は、GHQ/SCAPに対して当時の日本政府および日本人がとった従順過ぎる姿勢とは一線を画し、イギリス仕込みの流暢な英語(白洲は日本語を話す方が訥弁になった)とマナー、そして本人が元々持っていた押しの強さと原理原則(プリンシプル)を重視する性格から、主張すべきところは頑強に主張し、GHQ/SCAP要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わせしめた。

昭和天皇からダグラス・マッカーサーに対するクリスマスプレゼントを届けた時に、プレゼントがぞんざいに扱われたために憤激して「仮にも天皇陛下からの贈り物をその辺に置いてくれとは何事か!」と怒鳴りつけ、持ち帰ろうとしてマッカーサーを慌てさせた。マッカーサーは当時、神と崇められるに等しい存在だったが、白洲次郎に申し訳ないと謝った。GHQ/SCAP民政局長のコートニー・ホイットニー准将に英語が上手いと言われ「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」と逆襲した、などGHQ/SCAPとの交渉の間に生まれたエピソードは数多い。

-------wikipediaより抜粋-----------  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 10:00Comments(0)

2007年04月30日

★大谷徹奘の法話

よっぽどの縁なんです。
あなたの後ろにある目に見えないけど脈々と引き継がれた命と
私の後ろにある目に見えないものが出会うんです。
その確立なんて本当に天文学的数字じゃないですか?

だから誰に出会っても、嫌な人だなと思っても
もう一度、よっぽどの縁だもんな〜って
にっこり笑ってみて下さい。

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最近聞いた法話です。
私たちが生きていること、誰かが生きていること
そこに出会いが生まれること。

ご先祖様から受けた御恩や御縁を大切に思わなきゃ
きっと幸多い人生はおくれない。

今の仕事の仲間も縁。お客さまがいるのも縁。
人との縁だけじゃなく
今使っているパソコンや
机やイス、そしてこの事務所。

私が関わる触るすべてのものに
「ありがとう」と感謝していかなければ…

大谷徹奘

昭和38年(1963年)4月16日、東京都江東区にある浄土宗の重願寺(じゅうがんじ)住職の大谷旭雄(おおたにきょくゆう)の二男として生まれる

芝学園高等学校在学中17歳の時、故・高田好胤薬師寺住職に師事、薬師寺の僧侶となる

龍谷大学文学部仏教学科卒業、同大学院修士課程修了

1999年春から全国各地で「心を耕そう」をスローガンに法話行脚

2003年8月16日、薬師寺執事

2004年6月6日茨城県潮来市・水雲山 潮音寺の副住職に就任

その他:奈良少年刑務所・大阪矯正管区篤志面接委員会

心の学校とは、特定の場所を指すのではなく、心を学びたいと思う人々が集う所のことをいい、全国各地で開催する心の為の教室の総称です。
現在、潮音寺を中心として全国各地に活動の輪を広げております。

今、本当に心を学ぶことが必要となっています。
その思いを持つ人々をつなぎ合わせ、より良い精神社会の構築を目指しています。  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 14:50Comments(2)

2007年04月30日

★岩元貴久の言葉

架空のお客を想定してしまうと 本来の客の視点を見失う
自分が買いたいかどうか?を判断基準にしなさい。
これは接客態度や販売システムも同じこと…

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何を商売にするときにも大切なことだ。
自分が買いたいかどうか?
自分が買いたくないものを、相手に売るなんて失礼だ。
その商品に自信がなければいけなし、
その商品を好きでなければいけない。
もっともっと遠州ナビのことが好きになるように
編集記事の内容をもっと社会貢献的なものに変えていかなければならない。

岩元貴久


いわもと たかひさ 1966年鹿児島市生まれ。

アメリカでマーケティングコンサルティング会社、ソフト開発会社 、不動産投資会社の3社、日本でASP事業会社1社の計4社を経営している企業家。

また、「情報をお金にする」プロとして、情報商人を育成するための活動を展開中。

「好きな場所で暮らし、得意な市場で楽しく仕事をする」ライフ・スタイルをモットーとして、本人がこよなく愛するカリフォルニア州オレンジ郡に家族と暮らしながら、2−3ヶ月に1度の割合で日本を訪れる生活をエンジョイしています。

現在の活動は、事業経営の傍ら、講演・執筆活動を精力的に取り組んでいて、経営、マーケティング、自己啓発の分野に新しいスタイルを提唱することを目指しています。

好きな言葉は:

運命を拓く!
Where there is a will, there is a way.

■ 職歴
2000.10:イー・エム・ズィー設立 代表取締役就任
2000.07:EMZ,Inc.設立 CEO就任
2000.01:RockNoble,Inc.設立 CEO就任
1998.04:CIS,Inc.入社
1995.03:Ernst&Young LLP ロサンゼルス事務所
1994.03:Ernst&Young LLP クリーブランド事務所
1990.04:アーンストアンドヤングコンサルティング

主な著書 ・出版物
 
仕事が嫌になった人へ Happy@Work
  出版社:PHP研究所

「稼ぐ人」だけが知っている!13の氣づき
  〜人生と会社を急上昇させる実践的ノウハウ〜
  出版社: フォレスト出版

朝起きるたびに、どんどんお金持ちになっている
  情報商人のすゝめ
〜1日2時間の労働で、毎月新車が買えるくらい稼ぐ方法〜
  出版社: 総合法令出版

自動的にお客様が増え続ける仕組みづくり(CD書籍)
  出版社:日本経営合理化協会

「与える」ことで豊かになる!(CD書籍)
  −13の氣づきを越えて−
  出版社: フォレスト出版

ネットビジネス達人への道(CD書籍)
  七田眞のCD対談Vol.10
  出版社: 総合法令出版

奇跡の経営
〜 一週間毎日が週末発想のススメ〜
  出版社: 総合法令出版

eの力!挑戦e-business
  出版社: 中央経済社

マスターマインドマーケティングセミナー2004
  販売元: 株式会社イー・エム・ズィー

あなたの知らない情報ビジネスの儲かる仕組みDVD
  販売元: ビジョネット

情報販売実践講座
  販売元: 株式会社イー・エム・ズィー

インターネットで儲ける101の方法
  出版元:ロックノーブル・インク

ダイレクトレスポンスeマーケティング
  〜売上を急上昇させる秘訣〜
  出版元:SMBCコンサルティング

その他、日米のビジネス雑誌への寄稿多数  


Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 11:58Comments(0)