★沢庵宗彭の言葉(フィクション)
1枚の葉にとらわれれば 大木は見えず
大木にとらわれれば 森は見えず
見るとも無く 見る それが全体を見るということじゃ
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井上雄彦のバガボンドに登場する沢庵宗彭の言葉。
実在の人物だが宮本武蔵に影響を与えたかどうかはわからない。
バランスが大事ということだよね。
小事に心をとらわれていたら
その先にある大事を見逃してしまうかもしれない。
感覚を研ぎ澄まして
ひとつのことにとらわれすぎないで
本の中身のこと、経理のこと、人間関係のこと、ビジョンのことも…
澤庵宗彭
(たくあん そうほう、1573年12月24日(天正元年12月1日) - 1646年1月27日(正保2年12月11日))は、江戸時代の臨済宗の僧。大徳寺住持。漢字制限(当用漢字、常用漢字、教育漢字)により現表記にされる。 但馬国出石(現兵庫県豊岡市)の生まれ。紫衣事件で出羽国に流罪となり、その後赦されて江戸に萬松山東海寺を開いた。書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これには異説も多い。
1632年、将軍徳川秀忠の死により大赦令が出され、天海や柳生宗矩の尽力により、紫衣事件に連座した者たちは許された。沢庵が柳生宗矩に与えた書簡を集めた『不動智神妙録』は、「剣禅一味」を説いたものとして著名である。沢庵はいったん江戸に出て、神田広徳寺に入った。しかし京に帰ることはすぐには許されず、沢庵は同年冬駒込の堀直寄の別宅に身を寄せ、1634年(寛永11年)夏までここに留まった。宗珀とともに大徳寺に戻ったのち、家光が上洛し、天海や柳生宗矩、堀直寄の強い勧めがあり、沢庵は将軍徳川家光に謁見した。この頃より家光は深く沢庵に帰依するようになった。
同年郷里出石に戻ったが、翌年家光に懇願されて再び江戸に下った。沢庵は江戸に留まることを望まなかったが、家光の強い要望があり、帰郷することは出来なかった。家光は品川に萬松山東海寺を建て、沢庵を住持とした。家光は政事に関する相談もたびたび行った。