★杉原千畝の決心
私の一存で彼等たちを救おう。
そのために処罰を受けてもそれは仕方ない。
人間として信念を貫かなければ…
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第2次世界大戦の最中、6000人ものユダヤ人を人道的立場から
救った男。あの異常な雰囲気の中で自分の立場や身を顧みず
人としての良心に従って行動した杉原氏を尊敬する。
杉原 千畝
(すぎはら ちうね、SUGIHARA "Sempo" Chiune、1900年1月1日 - 1986年7月31日)は日本の官僚、外交官。
第二次世界大戦中、トランジットビザ(Transit visa.通過査証、通過ビザとも。以下ビザと記載)を発給することでナチス・ドイツによる迫害から約6000人ものユダヤ人を救った。海外では、センポ・スギハラ、「日本のシンドラー」とも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばせた理由は主に「ちうね」という発音のしにくさから、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。
1940年夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。ソ連がリトアニアを併合し、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館(当時日ソは不可侵条約を結んでおり、国際法上日本領土とみなされる日本領事館は最後まで業務を続けることが出来た)に通過ビザを求めて殺到した。当時、日本政府はユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていたとはいえ、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは外務省ユダヤ難民取り扱い規則により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。ユダヤ人難民のほとんどはこの受給資格を欠いていたため、千畝は本国外務省に伺いを立てるが、発給は許可されない。
1940年7月18日、千畝は外務省に緊急のビザ発給許可要請をするも、翌日に届いた返答は「ビザの許可は内閣改造中ゆえ発給できない」というものであった。新内閣の発足後、外務大臣 松岡洋右に直接、人道的なビザ発給の許可要請を再度行うも、7月23日、松岡洋右大臣直々にヨーロッパ各国の大使館・領事館に「難民へのビザ発給は許可できない。」という通告が発せられた。それは千畝にとっては事実上の最後通告であった。また同時期、ソ連からリトアニア併合に伴う日本領事館の閉鎖通告がなされていた。
こうした政府方針、外務省の指示に背いて、1940年7月25日、千畝は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、千畝と妻・幸子はベルリンへ旅立つ9月5日までおよそ1ヶ月余りビザを書き続けたとされる。その間発行されたビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでも2139枚。しかし、次第に日本領事館の閉鎖日が近づくとともに作業の効率化のため、途中から記録するのをやめてしまったと言われている。そのため、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明証が発給されたという説もある。また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。途中ビザに貼り付ける印紙が無くなってしまったが、杉原は職権により「出国のための領事特別許可証(通過ビザと同様の内容。ビザより発行要件が簡素で、迅速な出国の必要があるときなど緊急時に用いられるが超法規的意味合いが強い)」の発行を行い、ソ連による自身への退去指示の期限ぎりぎりまで更に多くのユダヤ人を出国させた。領事特別許可証による出国者は多数に上るが、人数は定かではない(発給記録が残っていないため)。領事特別許可証の発行はベルリン行き列車の出発寸前まで駅ホームで続けられた。