★ラダ・ビノード・パール判事

遠州ナビ山下隆宏

2007年05月17日 17:07

この度の極東国際軍事裁判の最大の犠牲は
《法の真理》である。
われわれはこの《法の真理》
を奪い返さ ねばならぬ。

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東京裁判の11人の判事の中で日本の軍部指導者の
全員無実を主張した判事。
京都の護国寺や靖国神社に石碑がある。
あの異常な状況下で
よく全員無実の判断をくだせたと思う。
戦争を起したことを悪く無いとは言わない。
人を殺すような行為、戦争はするべきではない。
が、それぞれ戦争を起す理由がある。
その理由がある限り
どちらかを一方的に裁けないと思う。

ラダ・ビノード・パール

(Radha Binod Pal, , 1886年1月27日 - 1967年1月10日)は、インドの法学者。極東国際軍事裁判(東京裁判)において判事を務め、同裁判の11人の判事の中で、唯一被告人達全員の無罪を主張した。教科書や文献などでは、「パル」表記も多い。
1946年の極東国際軍事裁判ではインド代表判事として派遣された[1]。

1950年10月に再び来日し、約一ヶ月間日本に滞在した。その際、原爆慰霊碑の碑文について、碑文の責任者である浜井広島市長と対談を行うなどしている。広島市中区の本照寺の住職・筧義章に請われ詩を執筆した。その詩は後に本照寺に建立された「大亜細亜悲願之碑」に刻まれている。

1952年4月28日、GHQによる発行禁止などを避けるため、サンフランシスコ条約によって日本が主権を回復したその日に、パールの提出した意見書を元にした『パール博士述・真理の裁き・日本無罪論』が太平洋出版社から発売された。これは、田中正明がパールの意見書のうち1/5ほどを抜粋し、意見書に対する田中のコメントを追加したものである。

1952年、下中彌三郎(平凡社創業者、初代社長)らの招聘により、世界連邦アジア会議に参加。同年国際連合国際法委員会委員に就任し、同職を1967年まで務める(1958年度および1962年度委員長)。翌年下中彌三郎の招聘により三度目の来日。

1955年、世界連邦カルカッタ協会会長に就任。

1957年に国際連合常設仲裁裁判所判事、1959年にはナショナル・プロフェッサー・オブ・ジュリスプルーデに就任する。

1960年、インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章する。

1966年10月に清瀬一郎、岸信介らの招聘により四度目の来日。その際、昭和天皇から勲一等瑞宝章を授与された。

1967年1月10日、カルカッタの自邸にて死去。享年82。

1997年11月、インド独立50周年を記念して京都府京都市東山区の京都霊山護国神社に顕彰碑が建立され、パールの長男夫妻が来日し除幕式が行われた。また、終戦60周年の2005年6月には靖國神社にも同様の顕彰碑が建立された。

2006年12月、来日したインドのマンモハン・シン首相が衆議院にて行った演説で「戦後、パール判事の下した信念に基づく判断は、今日に至っても日本で記憶されています」と語り拍手で迎えられた