★二宮尊徳の教え
まことの道というのは、学ばないでも自然と覚え
書籍もなく記録もなく師匠もなしで
しかも人々がてんでに会得して忘れない
そういうものこそまことの道だ。
のどが渇けば飲み、腹が減れば食い
疲れれば眠り、目が覚めれば起きる、みんなそれだ。
そのように、記録もなく、書籍もなく
学ばず習わずに明らかな道でなければ
まことの道ではないのだ。
だからわが教では書籍を尊ばず
天地をもって経文とする。
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掛川には大日本報徳社がある。
これは二宮尊徳の教えを
広く庶民に知らせるのに中心になった。
第1代社長は岡田佐平治
第2代社長の岡田良七が尊徳の弟子となった。
弟子の中でも「遠州の小僧」と呼ばれ
非常にかわいがられたそうだ。
良七は
冀北舎という(現掛川西高校)を
創立し、漢学や報徳の精神、
そして英語までもを教えたそうだ。
報徳の精神とは
「徳をもって徳に応える」
という考えがもとになっている。
良七は、日本で最初の信用金庫(現掛川信用金庫)も
創立したそうだ。
昨日。報徳社の宮川さんに教えてもらいました。
で、今の報徳社の社長は榛村純一前掛川市長です。
二宮 尊徳
(にのみや そんとく、天明7年7月23日(1787年9月4日) - 安政3年10月20日(1856年11月17日))は日本の江戸時代後期に「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる農村復興政策を指導した農政家・思想家。通称は金次郎。ただし、「金治郎」の表記が正しい。諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と訓む。
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に百姓利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。14歳で父利右衛門が死去、2年後には母よしも亡くなり、尊徳は伯父二宮万兵衛の家に預けられた。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功する。この頃までに、身長が6尺(約180センチ強)を超えていたという伝承もある。
生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら自身は小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(現在の栃木県芳賀郡二宮町周辺)の仕法を任せられる。後に東郷陣屋(栃木県真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。栃木県今市村(現在の日光市)にて没。
二宮の仕法は他の農村の規範となった。没後の1891年に従四位が追贈されている。弟子の大友亀太郎は旧幕府下で札幌村の開拓を指導。亀太郎は札幌開拓の始祖と呼ばれる。
二宮尊徳をまつる二宮神社が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(今市報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県芳賀郡二宮町(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県芳賀郡二宮町にも二宮尊徳資料館がある。
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