2007年05月11日

★本田宗一郎の言葉

人間の努力は、いつの場合でも最良の結果を生むとは
限らない。
なぜかといえば、努力それ自体は、まったく意志を持たない
一つのモーションなのである。
たとえば、いくらモーションがよくても、
必ずしもストライクだとは限らないのである。
投手のコントロールの良さがあって
モーションも生きるのである。
努力はその時の情勢にもっとも緊急の効力を
生んではじめて努力として認められる。
努力したが、結果はダメだったのでは努力にならない。

仕事の中に能力を活用しなかったり
方法を選ばなかったりしたら
それは徒労という一種の道楽に終わる。
努力には、創意と工夫が必要である。

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手厳しい本田宗一郎さんの言葉。
よく努力したから、その努力がいつか身を結ぶというけど
本田さんの場合は、そう考えてなかったみたいだ。
プロジェクトに対して、最良の結果を出す。
この使命が果たせないと
会社は悪い方向に進んでいく。
創意+工夫+努力=成功 である。

本田 宗一郎

(ほんだ そういちろう、1906年11月17日 - 1991年8月5日)は日本の実業家。 本田技研工業(通称:「ホンダ」)の創業者。正三位 勲一等 ミシガン工科大学名誉工学博士。 ソニーの井深大などと並んで、戦後日本を代表する技術者・起業家として世界的に知られている。血液型はA型。
宗一郎が11歳の時、浜松に飛行機の曲芸飛行が行われると知り、親の財布からお金を盗みこっそり夜中に家を出て父親の自転車で不自然な格好でペダルを漕ぎ(いわゆる三角乗り)一晩かけて浜松の飛行場を目指した。
* 20歳当時、人と同じことをするのが嫌いだった宗一郎はまだめずらしかった洋服を好んで着ていた。
* 本田は会社の判子を藤沢に預け、会社の経営は全て藤沢に任せていた。本田自身は技術部門に集中し、後に「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述べている。互いに「落合」(本田の自宅のある所)・「六本木」(藤沢の自宅のある所)とざっくばらんに呼び合っていた。この言葉の裏には「お互い全力で切磋琢磨することで現在のホンダが築きあげられた」という意味が込められている。また両者は、「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっており、本田と藤沢は身内を入社させなかった。盟友の井深大が、自らの会社名を「ソニー」と名付けたことに対し、後年本田は自らの名を社名に冠したことを非常に後悔したという。
* 鈴鹿製作所の完成前に、鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話。また、とても便利とはいえない三重県鈴鹿市に工場を置いたのは、担当の役人の、接待や金銭など一切関係なく、「渋茶一杯」で誠実に説明してくる熱意に惹かれたからだ、という。ちなみにその時宗一郎は岐阜県大垣市とどちらかに工場を建設する予定だったが、宗一郎が大垣市を訪れたとき、クーラーの効いた部屋でオレンジジュースを出されたという。
* 有名な言葉には「社長なんて偉くも何ともない。課長、部長、包丁、盲腸と同じだ。要するに命令系統をはっきりさせる記号に過ぎない」1988年、初めてF1ワールドチャンピオンを獲得したアイルトン・セナの記念パーティの席でセナに対し「来年も最高のエンジンを作ってやるからな」等がある。また、本田の膝下で働いていた社員達は宗一郎を「オヤジ」と呼んで慕っていた。
* F1でのホンダターボエンジンの圧勝を面白く思わないFISA(現FIA)はターボエンジンを禁止、NAエンジンのみの規制を掛けた。これに憤慨したチーム監督の桜井淑敏らは本田宗一郎に直訴したが、それを聞いた本田は「ホンダだけがターボ禁止なのか? 違うのか、馬鹿な奴等だ。ホンダだけに規制をするのなら賢いが、すべて同じ条件でならホンダが一番速く、一番いいエンジンを作るのにな。で、なんだ話ってのは?」と言い、桜井等は「いいんです、何でもありません」と嬉しくなってしまった。
* 南青山の本社ビルを新築する際、本田は「万が一地震が起こったときに、割れたガラスが歩道を歩く人に降りかからないようにしなさい」と指示し、このビルには全フロアにバルコニーがつけられたという。また、藤沢武夫も全く同じ指摘をしていたという。
* 生前から自動車メーカーの経営者が車の渋滞を起こすような派手な社葬などしてはいけないと公言。実際、遺族はこの遺志に従い通夜・社葬を行わなかった。そのかわり控えめな社葬と言える「お礼の会」が東京都港区青山のホンダ本社・和光・鈴鹿・熊本の各製作所で執り行われた。
* 浜松でアート商会創業当時より、本田は派手なシャツやネクタイを締め、朝から晩まで試作車のバイクを乗り回した。田舎では、そんな姿が揶揄されたり、資金繰りが面倒(地方の金融業者は、借りた金をすぐに回収にかかっていた)だったりで、都会でのびのびと仕事をしたいと考えていた。
* 終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり、製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したり「遊んで」いたという。しかしこの遊びの中から自転車にエンジンをつけることを思いつき、後のオートバイ研究が始まるのであった。
* 勲一等瑞宝章受賞授賞式の際に、「技術者の正装とは真っ白なツナギ(作業着)だ」と言いその服装で出席しようとした(周囲に止められ、礼服で出席)。
* 宗一郎は経営難に陥ったときマン島TTレース(二輪)やフォーミュラ1〈四輪)などの世界のビッグ・レースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚をはかることで経営を立て直した。「苦しいときの神頼み」ならぬ「苦しいときのレース頼み」と呼ばれている。
* 上記のような神話的エピソードが喧伝されることについて、ホンダ副社長だった藤沢武夫は深い危惧を覚えていたという。いわゆる「本田宗一郎伝説」が、長期的に見てホンダにとってマイナスになりかねないと考えていたかららしい。
* 親族を会社に入れなかったという件に関しては正確ではなく、実は早世した次男を後継者にしたがっていたという説や、三菱銀行に融資を求める際、渋る銀行側に対し世襲はしないと約束して融資を受けた説がある。また宗一郎の実弟の弁二郎はホンダの重職にあった。ただし、実弟も宗一郎と同様にアート商会(本家)で奉公し、年季が明けた後に宗一郎の経営する浜松支店に職人として勤務し、それ以後も宗一郎に付き合っているだけであり、本田技研および本田技研工業の発足以降に縁故入社したというわけではない。
* 二代目社長の河島喜好は、大学卒業後に就職先に困っていたところ、偶然に父が宗一郎と顔見知りで、たまたま自宅からも近かったので父と一緒に宗一郎を訪問したら、「じゃあ、明日からウチに来るか」と誘われて本田技研に就職したというエピソードがある(当時のホンダは、個人事業の延長で大らかな時代だった)。
* 本田が逝去した91年、鈴鹿で行われたWGPで長嶋茂雄が大会名誉顧問にされ、そこでのインタビューで「このスズキサーキットで・・・」以下云々のコメントを発し、鈴鹿サーキット、ホンダ関係者を突然ライバルメーカーの名前を出したことによって顔を真っ青にさせていた。
* このように「本田宗一郎伝説」はかなり都合良く脚色されている面も多い。4輪では空冷エンジンに固執したり、2輪では2ストロークエンジンを頑なに否定したりという技術的な誤りも含め(2輪の2ストロークエンジンは彼の死後、環境基準に適合できなくなって廃れてゆくが、それは宗一郎の意識とは関係がない)、宗一郎の歩みには間違いも多かった。ただし、時代背景を考えると、当時の小型車であれば空冷エンジンという選択は特に間違いでもなく(実際にポルシェは90年代まで大排気量の空冷エンジンを製造している)、2ストロークエンジンは構造上排気ガスの汚染度が4ストロークより高いという問題があり、現在は廃れる流れであるなど、それらの選択は、企業としてのこだわりや思想の範疇でもあり、単に宗一郎というカリスマを批判するための批判かと思われる。
* 記者から「本田さんは工学博士は無理でも、ロの付いたエロ博士はすぐ取れる」と言われた事に、「これからの未来は、女性が車を乗る時代が来るだろうし、女性にアピールする車を作らないといけない。世の中に女性がいなかったら、俺は毛生え薬を試す事はないだろうし、服はドンゴロスに穴を開けたもので十分だが、女性がいるからこそ、クルマも女性に注目されないといけない」と言った。

-------------Wikipediaより抜粋-----------------------



Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 09:23│Comments(1)
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http://hitokoto.hamazo.tv/e446230.html
人間の努力は、いつの場合でも最良の結果を生むとは
限らない。
なぜかといえば、努力それ自体は、まったく意志を持たない
一つのモーションなのである。...
本田宗一郎の言葉【designTips】at 2009年01月06日 00:48
この記事へのコメント
「鈴鹿市側から本田への市名変更の申し出をされたが、宗一郎は「伝統ある地名を個人名に変えるなんてとんでもない」と丁重に断ったのは有名な話」
私、鈴鹿市には昭和30年代から30年以上住んでいましたが、
こんな話は聞いたことがない(笑)
当時、既に鈴鹿市内には大手繊維会社の大工場が立ち並ぶ状況で、当時は中小企業であった本田が工場を建てるから市名を変える、なんてことはあり得ないわけで。
この話は2000年代に入って急にあちこちで目にするようになりましたが、誰かの創作か冗談が一人歩きしているものと思われます。
一時期はウィキペディアにも記載されていましが、今は削除されていますね。
接待や案内の話もよく目にしますが、当時は新工場建設地として人気の鈴鹿市(大都市に近い、輸出が出来る原材料が輸入出来る港が直近にある、軍需工場や飛行場の跡地があり平坦な空き地が潤沢)は職員が案内慣れしていたと思われます。
実際に本田の後にも藤倉電線など色々来ました。
Posted by sugari at 2019年09月29日 13:51
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