2007年05月16日

★吉田松陰の詩

かくすれば かくなるものと知りながら
やむにやまれぬ 大和魂

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あらがうことのできない力として
日本国民を動かしてきた大和魂。
近代日本の輝かしい先駆者の一人である
吉田松陰が死刑の前夜にしたためた詩である。

自分の身を犠牲にして訴えなけらばならなかったこと。
他国の侵略から、日本を守るためにと
ただ、ただ愛国心、そして家族を守るために
死んでいった明治の志士たち。

4000万人の日本人のうち
本当に国を変えようと動いたのは
およそ4000人くらい。

今、日本の人口が
1憶3000万人。

およそ1万3000人が真剣に
日本国を変えようと考えれば
日本が変わるかも…

47都道府県で割ると
1県に276人。

静岡県で276人の
平成の志士を集うのを期待している。



吉田松陰
(よしだしょういん、吉田松蔭、天保元年8月4日(1830年9月20日) - 安政6年10月27日(1859年11月21日))は、日本の武士・長州藩士、思想家、教育者、兵学者。明治維新の事実上の精神的理論者である。
天保元年8月4日(1830年)9月20日、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に家禄26石の萩藩士杉百合之助、瀧の次男として生まれる。 叔父である玉木文之進から教育を受ける。
* 1834年:父の弟である吉田大助の仮養子となる 吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった
* 1835年:大助の死とともに吉田家を嗣ぐ
* 1840年:藩主毛利敬親の御前で「武教全書」戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
* 1842年:叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける
* 1845年:山田亦介(村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。九州の平戸へ遊学した後に藩主の参勤交代に従い江戸へ出て、佐久間象山らに学ぶ。佐久間からは「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林(小林虎三郎)のみである」と、二人の名前に共通していた「トラ」を引用し「象門の二虎」と褒められている。
* 1851年:東北地方への遊学する際、肥後藩の友人である宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで脱藩行為を行う。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。
* 1852年:亡命の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる
* 1853年:米国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、同じ長州藩出身の金子重輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から、予定を繰り上げて出航した為に失敗。
* 1854年:ペリーが日米和親条約締結の為に再航した際にも門弟と二人でポーハタン号へ赴き密航を訴えるが拒否されている。幕府に自首をし、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
* 1855年生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。その後、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、木戸孝允、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠等維新の指導者となる人材を教える。
* 1858年:幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企てた。長州藩は警戒して再び松陰を投獄した。
* 1859年:幕府は安政の大獄により長州藩に松陰の江戸送致を命令する。松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、同年、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年29。獄中にて遺書として門弟達に向けて「留魂録」を書き残す。その冒頭に記された辞世は”身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂”

-------------------wikipediaより抜粋----------------------



Posted by 遠州ナビ山下隆宏 at 01:09│Comments(3)
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この記事へのコメント
はじめてコメントします。

頭では窮地、不利になるとわかっていても、魂がそうしなければおさまらない。松蔭さんの熱い思いが、つたわります。同時に哀しい気持ちになります。

今は松蔭さんのように全てを捨てて『公』のために突き進める人は、自分もそうですが、なかなかいないように思います。

”親思う 心にまさる 親心 けふのおとずれ なんと聞くらん”

松陰さん処刑の朝の詩だったと思います。この詩も松蔭さんの一面を表していると思います。
Posted by 横須賀ローカル at 2007年05月16日 13:37
ありがとうございます。

丁寧なコメントで大変うれしく思います。

吉田松陰のような政治家が出てくることを
心待ちにしている私です。
Posted by 吟遊詩人 at 2007年05月17日 16:56
私は、小学校5年生の時の担任の先生が、すごく松陰先生を崇拝
していらして(この先生は特攻隊に希望し生きて帰還その後は音信無く生けるしかばね) 私も年を重ねて最近松陰先生の生涯に感動しています。 若くしてあれだけの人達が塾にて松陰先生を師として指導をうけられた、その方達が明治の政治家が沢山出て、維新の歴史を作ったが、今の時代にはそんな人はいないのが残念だ。
Posted by 野口美佐保 at 2009年01月31日 09:30
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